世の中と演劇するオフィスプロジェクトM

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劇評
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2010年10月公演『夕空はれてーよくかきくうきゃくー』

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丸尾演出の『夕空はれて』は、たしかに別役実の本なのだけど、別役らしからぬスラッ
プスティックになっていて、面白かった。ずれていく言葉の洪水が、いつもなら身体
を越えて飛び交うのだが、ここではすべて動きつきという、身体性に富んだ表現に置
き換えられていて、新種の別役劇になっていた。別役のテキストから動きを掘り起こ
 
すことにワクワクしている演出家は、自らの出演場面では、ちょっととぼけた新様式
の演技を試みていて、演技者としても牽引力になっていた。

ふじた あさや 寄稿


 

2009年3月公演『離宮のタルト』

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幻想の妙
中本信幸

オフィスプロジェクトM『離宮のタルト』(作・演出=丸尾聡)は躍動感あふれる舞台運びで、現代と遠い時代が交錯する時空間を見せてくれる。オーディションで集めた俳優や、他劇団で活躍する俳優を交えた総勢17名のアンサンブルに助けられ、私的体験に根ざす作・演出の着想が、好舞台を産み出した。
 望遠鏡を覗くとなにが見える?見えないものが見え、幻想空間が舞台に繰り広げられるところがおもしろい(戯曲は本誌4月号掲載)。糖尿病のパティシェ(甲津拓平)と味覚障害の女(吉村玉緒)が暮らすマンションや、18世紀のフランス革命直後の離宮、フランス植民地時代の西インド諸島の三つの空間を結ぶものは、「砂糖」である。パティシェは、若者たちのあこがれのプロフェッションではなかろうか?
食や甘いものは人間の本能的欲求に応える。タルトのレシピ、「砂糖」の歴史など、観客の甘い味覚を刺激しつつ、鋭い文明批判を伝える舞台だ。(3月9日、新宿・サンモールスタジオ)。

 

総合演劇誌テアトロ 2009年5月号より


 

2004年『飯縄おろし』

歴史の深層に
中本信幸


歴史というもののあやふやさ、共同幻想の見直しを迫る一連の芝居にぶつかった。イラク問題、続出する「テロ」事件・・・民族国家という近代国家理念では、今日の世界の混迷を脱しえなくなっている。
 一陣の涼風が体内を駆け抜ける。詩情豊かな好舞台。オフィスプロジェクトMの丸尾聡=作・演出『飯縄おろし』は、古典の風格をそなえた佳作だ。二〇〇二年十月に初演されたものの改訂版。再演に際しては、作者と同じく長野県長野市出身の俳優、小林達雄が尽力しているという。
 時は一九七〇年代、まだ貧しさが残っている時代。ところは山間の高校の教室。未だ木造校舎で、古くから使われてきた机や椅子が雑然と並んでいる。
季節はずれの大雪で午後から学校閉鎖になったのに、数人の高校生が居残っている。卒業を控え余餞会の芝居の相談があるからだ。しんしんしん、しーん。降りしきる雪。都会の飲み屋で働いているらしい女性・甲子千春(平沼寧)が懐かしいところに戻ってきた。なんおために? 冷たい飯縄おろしに運ばれて、山太郎(岩下寛)がやってきてくれないか、と期待して。窓の向こうに少年少女たちの群像が彼女と同じように雪を見つめている。狂躁の音を吹き消して、子どもたちの声がりりしく響いてくる。

  ば ば ば ばばばば
  ば ば ば ばばばば
  飯縄山から吹く風が ばばば
  粉雪さ 舞い上げた
  粉雪紛れて 山から太郎さ やってきた
  なして来たんか

 この天の声のリフレインは、耳に残る。山太郎が鬼女の使いで、月光仮面のメロディーに合わせてやってくる、正義の味方として。長野県の戸隠村と鬼無里村の周辺に語り伝えられる「鬼女紅葉伝説」が紹介される。平安末期の乱世、政変の波に襲われ、都から信濃国の山中に流された紅葉は、戸隠山の山賊の首領となって、村々や街道を荒らしまわる。やがて清和天皇の討伐軍によって、さしもの妖術使いの鬼女、紅葉も殺されてしまう。紅葉は、自分の住んだ村は決して荒さなかったため、郷土では今でも愛慕されているという。少年少女たちは、雪に閉ざされた空間のなかでも、青春期の性や将来に対する不安を共有していることを確かめ合う。時空を超えた濃密な劇空間の中で、共同幻想として、今の自分を見つめることになる。新しい自分、新しい生き甲斐を見つけるために、懐かしい劇空間にいつでも戻っておいでというメッセージである。独特の台詞も魅力的だ。終幕で降りしきる雪の中を歩み走り始めるシーンが鮮烈である。現代の民話による「共感覚」の実験を見守りたい。小澤浩明、金安凌平、大芝孝平、船宝利一、西村いづみらのアンサンブルがいい(3月1日、梅が丘BOX)。


総合演劇誌テアトロ 2004年5月号より


『Life Cycle』

ステージに吹く、新しい、風。
浦崎浩實


丸尾聡=作演出、オフィスプロジェクトM公演『Life Cycle』(タイニイアリス)も秀作だった。
 とある病院のロビー。ここは入院患者の暗黙の解放区みたいになっており、長期入院患者、短期入院患者、入院したばかりのルーキー患者らが狭いベッドから抜け出て、ひと時の世間話に興じる空間である。
 そう、世間。会話の端々から各々の世間とのつながり具合が浮かび上がるのだ。世間とは、人であり、絆であり、愛情である。ひょっとして、憎しみも”世間”には含まれているかもしれないが、今となってはそんなに愚痴に堕するようなことに触れないのが彼らのせめてものプライドなのである。その、そこはかとない哀しみがふつふつと沸き上がってくる秀作なのだった。
 時折、看護婦や自販機の補給員が通りかかり、彼らの会話に加わるが、自分たちの病状についてリアルな会話を禁じているようで、その代わり、患者と看護婦が共通の関心として持ち出すのが、ロビーのガラス越しに(客席側に)巣を作っている鳩の卵がいつフ化するか、という話題なのだ。つまり、鳩を媒介にして、自分たちの生命の行方を占っているのである。
 小さな西洋人形がぺたんと座って観客の方を見ているが、”鳩”である。このまったく鳩の形をしていない”鳩”が奇妙なリアルさで観客に迫ってくるのは、たぶん、劇中の会話に重みがあるからだろうと思う。ロビーに差し込んでくる夕日、彼らが思い描く桜の下での花見のまた、哀切な生命の力として我々に訴えかけてくる。小さいがまことに充実した芝居である

総合演劇誌テアトロ 2002年10月号より

 

2000年『終着駅の向こうには……』


俳優の存在感
斉藤偕子
 

日本の近代劇作家として三好とは対照的な加藤道夫の作品『十一月の夜』 は、声と説明者による語りを枠に郊外の一地区の深夜に起きている数軒の家の中の寸描からなる作品で、終電車が通り過ぎるのを聞く夜の不安感と、一見淡々とした家族の風景にひそむかすかな緊張感をうまく重ねている。今日の若手劇作家丸尾聡は、この加藤の戯曲に触発され『終着駅の向こうには……』を書いた。 加藤の設定に内包された不安感に加え、丸尾は終着駅という、その先のない場面を特定することで、先のない現代生活の不安と緊張を込めようとしたのだろう。最終電車で降りた数組の若い男女のたどり着く家は、人の絆も希薄な場所で、不安定な人間関係を変える行動も煮え切らない世界だ。酔っ払って最終電車で騒いでいた男は、行き場すら見失ってさまよったあげく、車にはねられる。
 わたしは舞台を見る前に作品を読み、淡々と演じられる現代風景をイメージしていたのだが、作者=演出家は、いわゆる賑々しい演技を用い、人物のファイナティックなばかりのオーバーな表現の懸命さに不安と緊張感を際立たせようとしていた。その点からある存在感を生み得てはいたが、不安も含めて今日の風俗にすぎないのではないかと、そこから踏み出さない舞台にもどかしさを覚えたことも確かだ。

総合演劇誌テアトロ 2000年8月号より